東京地方裁判所 昭和52年(ワ)2028号 判決 1984年5月14日
原告
藤井光太郎
被告
株式会社研究社本社
右訴訟代理人
鈴木秀雄
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判<省略>
第二 当事者の主張
一請求の原因
1 原告は、ニューヨーク・タイムズのウィークリー版、ニューズ・ウィーク誌、タイム誌、アメリカの小説等を購読し、これらに掲載された文章から、アメリカで用いられる独特の英語(以下「アメリカ語」という。)の語法及びその用例について、使用頻度に従つて標準的なものを選択し、これを資料として、昭和二六年末までに「アメリカ語要語集」を著作し、次いで、昭和二七年一月から昭和二九年八月までの間に「標準現代英語」を著作した(以下、これらの著作物を「原告著作物」という。)。原告著作物のうち「アメリカ語要語集」(第三版以降「アメリカ英語用語辞典」と改題。)は昭和三〇年八月に、「標準現代英語」は昭和三一年七月に、いずれも研究社出版株式会社により発行された。
2 原告は、原告著作物中に、昭和三〇年八月までに日本で発行されたすべての英和辞典並びにアメリカの代表的な辞典であるウェブスターズ・ニュー・ワールド・ディクショナリ及びジ・アメリカン・カレッジ・ディクショナリに記載されていなかつた多数の新しいアメリカ語の語法及び文例を記載した。
3 被告は、被告各辞典を発行した。
被告各辞典は、いずれも、原告が原告著作物中に記載したアメリカ語の新しい語法及び文例のうちの多数を盗作したものである。
被告は、原告著作物と被告各辞典との間に、文例が同一又は類似のものは存在しない旨主張するが、別紙(一)のとおり存在するし、このほかにも多数存在する。
4 したがつて、被告が被告各辞典を発行した行為は、原告の原告著作物についての著作者人格権及び著作権を侵害するものであるから、被告は、原告が右侵害行為により受けた物的損害四〇〇〇万円と精神的苦痛の慰藉料四〇〇〇万円の合計八〇〇〇万円の損害を賠償する義務を有する。
5 よつて、原告は、被告に対し、右損害金八〇〇〇万円の支払と、原告著作物の著作者人格権及び著作権に基づき、被告各辞典の発行差止、回収及びその組版の廃棄を求める。
二請求の原因に対する認否
1 請求の原因1のうち、原告が原告著作物を主張のころ著作した事実は不知。
2 同2は否認する。
3 同3のうち、被告が被告各辞典を発行したことは認め、その余の事実は否認する。
4 同4は否認する。
三被告の主張
1 辞典は、編集著作物であつて、素材の選択又は配列において著作物性を有するが、選択されて辞典に集録され、配列された言葉(単語、熟語、慣用句、その意味、解釈)は、素材であつて著作物性がなく、著作権の保護が与えられるわけではない。これらはすべて、人間の意思、文化の伝達の手段であり、社会共有の文化財である。アメリカ語においても、これは同じで、アメリカにおいて一般に使用されている言葉であるから、これら言葉(単語、熟語、慣用句等)について、何人も著作権を有しないことは自明である。
原告が盗作と主張しているのは、単語、熟語、その日本語訳等であつて、右のような点から、その理由のないことは、論をまたない。なお、原告は文例についても盗作を主張するが、原告著作物と被告辞典との間に、文例が同一又は類似のものは存在しない。
2 被告各辞典の編集に当たつた各学者は、原告著作物の存在も内容も知らなかつた。したがつて、原告著作物に依拠して編集したものではなく、盗作にならないことは明らかである。
第三 証拠<省略>
理由
一<証拠>によれば、「アメリカ語要語集」と題する書籍が昭和三〇年八月二〇日に「標準現代英語」と題する書籍が昭和三一年七月一〇日に、いずれも研究社出版株式会社から発行されたこと、これらの書籍には著作者として原告の氏名が表示されていることが認められる。これらの事実によれば、原告が右各書籍の原稿(以下、単に「要語集」又は「標準現代英語」というときは、これらを指す。)を右各日時までに執筆したことが推認される。
二そこで、「要語集」と「標準現代英語」の著作物性について検討する。
1 「要語集」
(一) <証拠>によれば、「要語集」は、三〇〇〇前後の標準的なアメリカ語の単語、熟語、慣用句を使用頻度に従つて選び出した上、これらを見出し語としてアルファベット順に配列し、各見出し語に続けて、その日本語訳を付し、その大部分のものについて、見出し語を用いた慣用句、文例及びこれらの日本語訳を付し、場合により、見出し語の発音記号、見出し語の各日本語訳に対応する英語による言換え、語法の簡単な説明等をした「註」、「注意」等をも付したものであり、全体として、アメリカ語に関する英和辞典の一種であること、並びに右の文例は、昭和二一年ころから昭和二九年ころまでの間にわたり、ニューズ・ウィーク、タイム、リーダーズ・ダイジェスト、ニューヨーク・タイムズ等の雑誌、新聞やわが国の大学入試問題等に掲載された文章の中から、原告自身が適切であると考えたものを選択したものであることが認められる。
(二) 右認定の事実と前記一の事実によれば、「要語集」は、原告がアメリカ語を素材にしてその選択と配列に創意をこらして創作した一個の編集著作物と認めることができる。
原告は、「要語集」に掲げられたアメリカ語の新しい語法及び文例について著作権及び著作者人格権を有する旨主張するけれども、アメリカ語の新しい語法を示すものとして原告が集録した単語、熟語、慣用句は言語それ自体を表記したに過ぎないものであつて、原告の思想又は感情の表現ではないことが明らかであるし、文例も原告が創作したものではないこと前記認定のとおりであるから、原告の右主張は失当である。
なお、単語、熟語、慣用句、文例等の日本語訳及び見出し語の英語による言換えは、原告の知的活動の結果表現されたものであると考えられるが、いずれも、日常的によく用いられている単語、熟語、慣用句又は短文の英語を日本語訳又は他の英語に置き換えたものであつて、長い文章の翻訳と異なり、英語の語意を正しく理解する能力を有する者であれば、誰が行つても同様のものになると認められるから、原告のみの創作的表現ということはできない。
2 「標準現代英語」
(一) <証拠>によれば、「標準現代英語」は、別紙(二)記載の全一八章の本文等から成り、アメリカ語の語法についての一般的解説及びアメリカ語の単語、熟語、文型等についての新聞、雑誌等に掲載された文章中から選択した例文等を示しての解説等を内容とする著作物であると認められる。
(二) 右認定の事実と前記一の事実によれば、「標準現代英語」は、原告の学識に基づき原告が創作した著作物と認めることができる。
原告は「標準現代英語」についても編集著作権を有する旨主張し、確かにこれに収録された単語、熟語、慣用句、文例等について素材の選択、配列という要素が考えられないわけではないが、その著作の内容に照らせば、これらは一個の著作物の内容の成分となつていることが認められ、これらがあるからといつて、「標準現代英語」を編集著作物としても観念しうるものというのは相当でなく、原告の右主張は失当である。また、同書中に収録された前記単語、熟語、文例等は、「要語集」について前述したのと同様の理由で、それ自体が原告の著作物であると認めることはできない。
三被告が被告各辞典を発行したことは、当事者間に争いがない。
<証拠>によれば、被告各辞典は、いずれも、英語の単語の中から標準的なもの数万ないし十数万語を見出し語として選び出した上、これらをアルファベット順に配列し、各見出し語に続けて、その発音記号、品詞表示、日本語訳を付し、また基本的見出し語について、見出し語を含む熟語、慣用句、文例及びこれらの日本語訳を付し、更に、場合により、見出し語の各日本語訳に対応する英語による言換え等をも付したものであり、全体として、典型的な英和辞典であることが認められる。
四そこで、被告が被告各辞典を発行した行為が、「アメリカ語要語集」について原告の有する権利を侵害するか否かについて検討する。
1<証拠>によれば、被告各辞典には、それぞれ、「要語集」に収録されている見出し語、慣用句、これらの日本語訳等の各素材(文例については、後述するので、ここでは除く。)と同一又は類似のものが相当数収録されているが、前記のとおり被告各辞典は数万ないし十数万語もの見出し語を収録したもので、同一又は類似でない素材が圧倒的に多く、右の同一又は類似の部分は、極く一部分であること、これらの素材の配列については、基本的配列方法は類似しているが、各見出し語ごとに具体的に見れば、相当異なつていることが認められる。
右の見出し語、慣用句、これらの日本語訳等の各素材自体については、原告が何ら著作権や著作者人格権を有するものでないことは、前判示のとおりである。
そして、右に認定したとおり、「要語集」と被告各辞典は、いずれも、英和辞典の性格を有するが、前者が新聞、雑誌等を基礎資料として標準的なアメリカ語のみを選択の対象としたのに対し、後者はいずれも英語全般を選択の対象としたものであり、後者が前者に比し、格段に多い見出し語を収録したものであつて、両者はその素材の選択の方針において全く相異し、英和辞典としての基本的性質を異にすると認められるのであつて、たとえ、被告各辞典に収録された単語、熟語、慣用句が「要語集」に収録されたそれと一部共通する部分があるとしても、被告各辞典のように格段に語数の多い辞典に語数の少ない「アメリカ語要語集」に収録された素材と同一又は類似のものが多く含まれているのは当然のことであり、また、各見出し語ごとの具体的配列において、両者は相当に異なつていると認められるのであつて、前者が後者の素材の選択又は配列に依拠し、これを模倣したものであると認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。
2<証拠>によれば、被告各辞典には、「要語集」に収録されている文例と同一又は類似の文例が若干数収録されていることが認められるが、その選択、配列について「要語集」の素材の選択、配列を模倣したと認められるものは存しない。これを原告の指摘する別紙(一)の各文例についていえば、1の文例については、熟語が共通であるだけで文例として類似しているとは認められず、2の文例については、明らかに慣用的文章と認められ、3の文例については、文章全体が熟語に一語加えただけの単純なものであつて、これらの文例において共通点があるからといつて、被告各辞典が文例の選択において「要語集」の文例の選択を模倣したものと認めることは到底できない。他に存する若干の類似の文例についても右と同様である。
なお、「要語集」中の「註」及び「注意」の部分が仮りに編集物である「要語集」の部分を構成する独立した原告の著作物ということができるとしても、被告各辞典中に、右「註」又は「注意」の部分を模倣して執筆され、その複製、翻案等に当たるというべき部分が存することは、本件証拠上これを認めることができない。
3以上によれば、被告が被告各辞典を発行した行為が「要語集」について原告が有する権利を侵害したということはできない。
五次に、被告が被告各辞典を発行した行為が「標準現代英語」について原告の有する権利を侵害するか否かについて検討するに、「標準現代英語」に記載のあるアメリカ語の単語、熟語、慣用句、文例及びこれらの日本語訳それ自体につき原告が著作権及び著作者人格権を有しないことは、前示のとおりであるから、被告各辞典中にこれらと同一又は類似のものが収録されていても、このこと自体は原告の権利を侵害する理由となるものではなく、本件全証拠によつても被告各辞典中に、「標準現代英語」に依拠し、これを模倣した部分があるとは認められない。
したがつて、被告が被告各辞典を発行した行為は、「標準現代英語」についての被告の著作権及び著作者人格権を侵害するものということはできない。
六以上のとおりであるから、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これらを棄却<する。>
(牧野利秋 川島貴志郎 大橋寛明)
目録
一 新英和中辞典
発行所 被告
初版発行 昭和四二年
第三版発行 昭和四六年
第四版発行 昭和五二年一〇月
二 現代英和辞典
発行所 被告
初版発行 昭和四八年九月
三 新英和大辞典
発行所 被告
改訂版(第四版)発行
昭和三五年
四 新英和中辞典(机上版)
発行所 被告
第四版発行 昭和五二年
五 新ポケット英和辞典
発行所 被告
第三版発行 昭和三八年
別紙 (一)
アメリカ語要語集の文例
被告各辞典の文例
1
The store is taking a sales beat-ing.
商店は売上額が少なくなつている
――N.T.Jan.18,'48
(中)He took a beating in the stock market.
株で痛手を受けた。
2
Don't get me wrong.
然し私の言うことを誤解しないでくれ
(中)Don't get me wrong.誤解してはいけません。
(現)Don't get me wrong.誤解してはいけません。
(ポ)Don't get me wrong.誤解してはいけません。
3
Get Wood on the phone.
ウッドを電話で呼んでくれ。
(中)Get Mr. Smith on the telephone.
スミスさんを電話に呼び出してくれ。
(注) (中)は,新英和中辞典
(現)は,現代英和辞典
(ポ)は,新ポケット英和辞典を示す。
別紙 (二)
序
概観
Ⅰ.米語の変化および形成の要因
Ⅱ.主体性の意識
Ⅲ.標準化
Ⅳ.流線型文体(Streamlined Style)
Ⅴ.簡潔性
Ⅵ.形態上の変化
Ⅶ.機能の交換
Ⅷ.意味の変化(拡大)
Ⅸ.強意
Ⅹ.省略
.表現力
.Clauseの構文
.助詞
.名詞
.動詞
.形容詞
.副詞
.前置詞
結語